冷えた夏みかん

日々妄想、問答。

母は毒親足り得たか

私の母だが、たまに図書館などを歩いていて、母が重たい、みたいな題名を見つけると、さあうちの母はどうだろう、とたまに考えてみたりする。

 

さて、どうだったであろうか。

 

私の母は、言うのもなんだが若い頃はW浅野のどちらだか名前を忘れたがとにかくかっこいい浅野さんに似ていてワンレンロングとかっこよかった。

 

本人も竹を割ったような性格でさっぱりとしていたが、怒髪天を突くが如く怒ると恐ろしく、大きな相手にも怯まない。

弟がたまに脱線すると、小さな体で弟をボコボコに殴り倒して勝ってしまう強い人だ。

 

小さな頃、私の住んでいた地域は同い年の子がおらず、近くの府営の子は何かと徒党を組んで遊んでくれなかった。

私は誰に似たのか勝気で短気、祖母が言うには忙しすぎる母の愛情を取り合って蹴り合いの喧嘩をしていたらしく、哀れに思って祖母が散々連れてくれた。

 

京都に散々、行き倒した。

 

大きな桜を見ながら祖母が甘酒を飲んでいたのを覚えている。私は美味しいのかな、と思いながら兄弟で揃って立っていた。

 

さて帰ると、母の妹さんが優しくしてくれる、弟さんも構ってくれる、父はいつも優しくて、肝心の母が優しい時もあれば、本当に怖い時もあった。

 

そうだ、母はいつでも怖かったのだ。

 

それは労働時間十六時間を越す父の実家の手伝いで摩耗された結果であり、叔母と母は結託してこの頃の話をよく電話で仲良く話している。

 

あちらの家にはいつでも私の居場所があり、最後こそてんやわんやだったが心は常に互いを考えていた様に思う。私がいじめられた上、病気になったのが悪く響いた。沢山の誤解があった。とにかく人に会いたくなかった。

 

私に言えるのはただそれだけ。

 

あの頃の自分は不思議だ、人を見下す様な笑顔をしていた。

自分で自分がタチの悪いものだと自覚していたが、コントロールが効かなかった。

それなりに歳をとったというのに全く子供の了見で、勘違い甚だしかった。

 

思えば母は、私が病気になってからますますしっかりし、尚且つ優しくなった。

とびきり優しい人になった。もう10年以上経つ。

誰に対しても平等で、公平で依怙贔屓せず、いつも正しく対処する。

 

そうだ、母は母になったのだ。

 

最近がめつさが目立って来たらしく、私は反省の度合いが増えた。

 

母の娘であるなら、それなりの人物にならなくてはいけない。

これは自戒である。

 

私の母は、毒などではない、完全無欠の良薬である。