幸せになるということ
まだ、家族が足りていない。
兄だ、兄が欠けている。
兄は不規則な生活を送りつつ、経験と知識を積んで頑張っているが、帰宅はいつになるだろう。
彼の体がダウンしないか非常に心配だ。
最近ようやく母が塞ぎの虫から解放されて、夜に二人で歩いている。
地元のスーパーに入り、犬を撫で、城に登り桜を見た。
こんな普通が今まで無かった。只々寂しく憎み合う関係だった。
ようやく普通にお金なんかいらない、健康さえあれば、と幸福を感じる我々に、まだ魔の手は忍び寄る。
信号などで止まると、必ず私の方に近づいて唾を吐きかけたりする輩がいるのだ。
私は今日も黙っていた。
悲しい人は悲しいし、憎しみを抱いている人はそれなりに地獄を見ている。
私は最早この身に覚えの無い罪の擦りつけに慣れ、静観と諦め、無視を覚えた。
それからかつてアメブロにて交流のあった彼女のことを考えた。
あの人こそ幸せを掴む筈だったのに、神様のいたずらで苦しみを見ている。
日々忘れることの出来ない人こそ、幸せの真価を問いかけ続ける。
今私は、この幸せを受けるに値する人間であれるか?
少なくとも、また少し経てば一人ぼっちだ。そんな人生。
さよならだけかね、人生とは。
桜に問いかける四月。