冷えた夏みかん

日々妄想、問答。

皆さんが聞きたい事に

答えようかと思います。

 

まず、幻聴。

私の場合、中学の時言われたこともないような酷い言葉を投げつけられるようになって、それがみんながみんな言うので、始めは耐えてましたがだんだん耐え切れなくなり、四六時中聞こえるようになってきて、それで通信で家と学校往復してましたがその間は聞こえなかったです。

 

ただネガティブな言葉はみんな自分に向けられているという発想が抜けなかったし、はっきり言うとこの頃一番ダイエットやおしゃれに気を使い、周りに言わせれば「可愛かった」と。

 

社会人一年目も可愛いと言われたのですが、そのひそひそすら悪口に聞こえてトラブル勃発。

もうひそひそが駄目。

三年耐えて、本当に虐められるようになってしまい、太ってしまって自画自賛できないままマラソン生活へと突入し、どこへ行っても一人ぼっちの女の子として有名でした。

褒められるけど、嬉しくない。可愛い=友達がいるわけではない。

先輩方は可愛がろうとしてくださったんですが、私が我が強すぎて、潔癖で受け付けず、女の会話もできず、即退場。

 

機能障害ですが、元が出来たので作業上は無かったかと。

ただコミュニケーションが圧倒的に取れなかったので、最悪でした。

これは後々務めることになるコンビニで徹底的にサポートしていただいて、フォローもたくさんして頂き、ようやく回復して犬も飼い、自分に自信らしきものが持てるようになった頃、大阪へ引っ越しに。

 

それなりに好きな人もいましたし、女の子な見た目をしていました。

ただ京風の厚化粧。白塗りな私は大阪の下町では浮き、服装もびしっと決めていくので母などが簡単な服装なのに、娘が贅沢するとは何事か!と地元の方たちに喝を入れていただき、半いじめもありましたが言えていて、私はこの時期非常に勉強しました。

ただ、集団ストーカーという特殊詐欺を弟に吹き込まれたり、色々ありまして、それなりに聞こえるものも聞こえるようになりましたし、そこはお薬を飲んだり注射したりして緩和しており、今ではほとんど聞こえません。

 

聞こえるようになって、まずしたこと。

働けなくなったので、障碍者手帳を生まれて初めて発行したこと。これは地元にいたころ両親が私も出してくれと訴えていたのですが、まだ行ける、まだ出来ると世間体を気にしてしてくれなかったことの一つで、これで本当に私は救われました。

 

とりあえず、月の物が出るようになったので安心して、後は家族貢献。

ハマったのが掃除。

一階の物置から三階まで毎日拭き掃除して、母たちがいない間洗濯して、干して、たまに一品買ってくる。

弟はどんどん変でしたが、なんとか生活してました。が、精神病院入院へと突入。

自分で蒔いた種、憐れみがあったかと言われれば無かったですね。

 

とりあえず兄弟にジュースを買い、労を労う。

そんなこんなで暮らしていくうち、父も時々帰って来ては一緒に遊ぶ。

 

私はこの時期小説を書くという昔からの趣味を再発掘し、星空文庫にて始めたのですがなんだか日の出を見たらしく、それなりの物が書けるようになりました。

近所に古本屋もあったので、もっぱらそこに通う日々。

貯金も考えてましたが、出ていく月のお金。家に入れていました。

 

今こそようやく安心して貯金に回せますが、あの頃は本当に障碍者年金が無かったらどうしていただろうかと不安になる事この上ないです。

 

今でもそうかと聞かれれば、もう軽い仕事でも何でもすればいいんじゃないかな、と思うのですが、三年間大阪にいて本当に強くなったし、今でもあの辺りは歩いて遊べますし、本当に良い経験でした。

 

何よりも礼儀作法を学ばせていただいた。

今ではそう感謝しています。